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【虚妄分別について】 ●世界のあらゆる存在は、ただ心の現し出したものにすぎない、と大乗仏教の学派である瑜伽行学派(唯識学派)は主張した。瑜伽行学派は、通常の認識作用の根底に潜む識を「アーラヤ識」と名づけ、そのアーラヤ識が存在を現し出すはたらきを「虚妄分別」と呼んだ。【本書の特色】 ●虚妄分別の語義は、『中辺分別論』第1章「相品」に現れる。この書の作者は瑜伽行派の祖、聖者弥勒(マイトレーヤ、350~430)とされ、それを伝えたのが軌範士無著(アサンガ、395~470)で、それに注釈を付したのが軌範士世親(ヴァスバンドウ、400~480)と言われる。しかし、彼らの注釈はあまりにも簡潔すぎるため、のちに安慧(ステラマティー、510~570)がその注にさらに注を付けたものが現在サンスクリットのテキストとして残されているが、必ずしも完全な形態を留めてはいない。そのうえ、安慧の注も読者の理解を助けるための配慮に欠けている。同書に関しては、山口益や長尾雅人の研究が先行しているが、いまだその思想が十分に解明されたとは言えない。本書ではその不足を補うべく、先学の研究をベースにしつつも、新たにサンスクリット本を校訂し、現代日本語訳を試み、虚妄分別の所取(客観的存在)・能取(主観的存在)のはたらきを、世親と安慧がどのように解明しているのかを明らかにする。そこでは、「所取」と呼ばれるものも、「能取」と呼ばれるものも実在ではなく、アーラヤ識とそれが現し出すはたらき(つまり虚妄分別)のみが実在するだけで、それによって現し出されたものは疑似的存在にすぎないとされ、ゆえに「唯識」なのであると言われているとする。●著者は、虚妄分別の構造を理解するためには、虚妄分別が所取・能取として認識される世界を現し出すことに、言葉の習慣性(種子)がその根本的な原動力となっていることに注意を促す。唯識説は言葉のはたらきを重視する。また唯識説では、過去のあらゆる経験は、言葉の習慣性(種子)として心の深層にあるアーラヤ識に蓄えられ、それが、われわれがいま現に見たり聞いたりしている世界を現象させているのだとし、そのため心の深層において、言葉の習慣性が現象世界を立ち上げる事態を虚妄分別と呼び、虚妄なる主観的・客観的存在を実在するものと思い込む心のはたらきが明らかにされる。